僕にはお気に入りの古本屋がある。

そこの古本の品揃えが気に入っているのではなく、ただ、そこで流れる音楽が気に入っているだけなのだが。僕はここ一年ほど神保町にあるその店を訪れていないが、かつては毎週のように訪れていた。そんな隠れ家のような店が僕にもあった。


けれども、その店には問題があって(問題は全てのモノにあることだから、別にとりたてて"問題があって"と言う必要はないのだけれど)、それはあまり店内が広くないということ。というより寧ろ狭すぎる。人の流れは全て一方通行で止まっていることが許されなかったのである。もちろん本を探さない人間もいる(この店を訪れる客ではそういうような客は自分一人かも)わけだが、立ち止まって音楽を聞いているなんてもっての他だった。店のオヤジがレジから見ていて、立ち止まると立ち読みもしていないのに"止まらないで"とポツリと呟くのだから仕方ない、動くしかない。でも、本を探していないからまだ耐えられるものの本を探している人間にとってはとんでもない店だ。けど、その店の入り口(これまた狭くて人一人がやっと通れるぐらいの幅しかない)の左の壁には大きな白い紙に筆による「店内では如何なる理由であっても立ち止まらず、一方通行で進んでください。守れないものの入店はお断りします。店主」という達筆な赤い文字があった。だから本を探しに来る客は、ゆっくりだが決して立ち止まることなく書棚を物色しなければならなかった。天井まで届く書棚を一回で見終わることは当然できないので、全ての書棚に目を通すには狭い通路を最低でも6周はしなければならなかった。

言い忘れたがこの店は奥行きのある長方形の(正確には当たり前だけど直方体の)部屋で、その周りの壁にまず書棚があり、それらに取り囲まれるような形で部屋の中心にも書棚が置かれていた。つまり、書棚と書棚の間に通路が出来ていた。入り口とレジが長方形の短い辺のそれぞれ向かい合う位置にあったが、書棚が遮り、入り口からレジの店主の顔を直接見ることはできない。入り口の床には、入店して右と左どちらに進めば良いか分かるように、店主の親切心からなのか、右に向かう矢印が黄土色のインクでペイントされていた。入り口側の壁には一番上の頂点に鏡が一枚ずつ設置されて、万引き防止というよりは客の足が止まっていないかがレジから確認できるようになっていた。


自分も含めてほとんどの客は、まず大きい本や厚めの全集などが納められてる壁に見事に埋まった書棚を、まず下の段を眺めて一周、次に中段、最後に上段というように周回する。そして、中央に設置されている文庫などがメインの書棚をこれまた同じように3周かけてチェックした。当然、中央に設置されている書棚も4面あり、入り口とレジの面積を差し引いて考えると外周の書棚と内周の書棚、それぞれを全て見終わる時間というものに変わりはほとんどなかった。レジのオヤジの前は折り返し地点のようなもので、オヤジの向かって左側にある書棚の本を買うのだとしても、その店では逆流は許されないから、もう1周しなくてはならなかった。だから、もし仮に掘り出し物の少ない内周の書棚の最後の角に奇跡的に岩波文庫の絶版本を見つけてしまったら、もう1周余分にしなければならない。

この店に訪れるのは、本の購入が目的ではなく音楽を聴くことが楽しみだったからで、開いていても何も見えていないといった空ろな目をしながらグルグルとその店内を周回していた。本当なら日長一日ここに居たかったのだが、何せ店が狭いし、店主のオヤジの目は冷たいし、水族館の回遊魚みたいだし、同じ所をグルグル回っているとバターにもなりそうだし、何だかんだでいっても6周30分ぐらいしたら店を出てしまったが、何度訪れても音楽は初めて聞くものばかりだった。4年間、その店を訪れない月はなかった。正確には毎週訪れていたかもしれない。もう前回何時コノ店に来たのかなんてワザワザ考える必要もないぐらいにその店に通っていた。結局、その店で一度も本を買うことはなかったけど、自分にとってここ以上の古本屋は神保町にはないだろうし世界にもないだろうと思っていた。


久しぶりに訪れた古本屋の入り口の左側の壁にはやっぱり張り紙がしてあった。黄土色のペイントが幾分あせたように見えたけど、店内の客はやっぱり半時計回りにグルグル店内を回っていた。店の匂いも以前のままだったし、書棚の雰囲気も同じだった。書棚にある本は一年前見た本と同じような気さえする。


だけど有線が流れていた。A-26。


少し寂しいような気がしたけどそれは多分気のせいだと思う。


***
なんだか嫌な感じがする文体だなぁ〜。明日からは普通の日記に戻ります。久しぶりに面接とかがなかったんで、違った匂いを出してみました。

勿論今日の日記はフィクションです。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索